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甥とのホームスクール(1)

この週末に甥がやってきました。

27歳。小学校5年生からホームスクール。
私の妹の息子なのですが、田舎でホームスクールをするのは世間の目があるから、
とうちに転がり込んでいました。

いまは就職して、つくばに住んでいます。うちに15年ほど住んでいたので、うち
がほとんど実家です。
大学と大学院がうちから通えるところだったので、ホームスクールが終わっても
同居人をやっていました。

いま暮らしている彼女と、秋に籍を入れるという。
「これかい?」と私が、お腹が大きくなった仕草をしたら、そうじゃないそうで
した。ま、なんだか理由を言っていたけど、忘れました。
ようするに、よく気の合っている彼女です。

しっかりした社会人になっていました。しゃべり方も、気の使いようも、すっか
り立派な社会人でした。

中学と高校は、みんなパス。
スケボーをやりまくっていました。昼夜は、まったく逆転。
高卒認定を取って、AO入試で日大の物理学科に。通常より2年遅れ。
そのまま修士まで終えて、外資系のエアバッグやシートベルトを作っている会社
に就職し、エンジニアをしています。
車が大好きで、今も一般開放のレース場で走っています。好きなことの関連を、
仕事にできた。

きれいなものを持っている子でした。打算や悪意のない感じ。
それを、社会人になっても、そのまま漂わせていました。いい感じだな、ホーム
スクールをやった甲斐はあったかな、と思いました。

学歴や就職についていえば、学校に行っても行かなくても、まあこんなものだっ
たろうと思います。
大学を卒業するときに甥に「ホームスクールはどうだった?」と尋ねたら、本人
は「まあ、(学校に行っていたのと)変わらなかったんじゃない。」「うん、ま
あ、そうだろうなあ」と私。

数学と物理は、ほんとうに本人がおもしろがってやっていました。それは、ホー
ムスクールでよかったと思います。学校に行っていたら、こうはならなかったろ
う。
だからと言って、天才的なものがほとばしるというほどでもなかった。試験でい
い点を取って喜んでいる程度だった。
ちょっと天才的なものの芽は見えかけたけど、育てきれなかった、という思いは
私に残っています。それは、書物や訓練の次元ではなく、愛情の次元でしか育て
られないものです。

こうもできたなあ、それが一番大事なことだったのになあ、と思うことが二つ。

ほんとうは甥のことが可愛くて可愛くてたまらなかったのに、表現できなかった。
本人がムスッとしてゲーム機をいじっていれば、こちらもとりつくシマがない。
週に一回は授業する時間を作って、接触を取るようにしていたのですが、悪のり
授業になるわけでもないし、嫌がるわけでもない。お互いにいまいち他人行儀の
まま過ごしました。まあ私自身を鏡に映すして見ているようなものなのです
が...。
ほんとうは愛し合っているのに、いまいちお互いに壁を越えられないまま同居人
生活をしているご夫婦がいるものですが、そんな感じかな。

もう一つ。
とにかく、もっといっしょに遊んで遊んで遊びまくるべきだった。
私は、自然流で行くつもりでしたが、やはり何かと打算が入る。学校的ではない
のだけれど、これは知識として役立つだろうとか、こんな体験をさせてとか、そ
んなことが、どうしても頭をかすめる。

甥とホームスクールを始めるとき、これから、この子とただ戯れて生きよう、と
思っていました。ところが、それから、いろんなことが起こりまくってしまった。
私の人生でもっとも忙しい時期と重なりました。
けっきょく、放任に近い状態になってしまいました。それを取り繕うのに、ちょ
っと授業めいたことをして、というふうでした。ほんとうに教えたかったのは、
釣りや、プラモ作りや、麻雀や、バードウォッチングだったのに(涙)。

ふだんの何気ない戯れ。
なんのためでもなく、ただいっしょに生きて、存在を感じていること。
その中に宝物があります。
その宝なしに、たいしたことはできないものです。

愛せるときに愛する。
戯れられるときに戯れる。

それが、どれほど大切なことか。

と、甥が現れたもので、ちょっと昔を振り返ってしまいました。

古山明男

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古山明夫

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