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甥とのホームスクール(2)

前回、甥とのことを少し書きました。

うちのホームスクールもけっこう悪くなかったんだ、と心から思えたもので、思
わず書きました。

ずっと、あれも出来なかった。これも足りなかった、という思いの方が多かった
のです。

人が育つのは、生活の仕方によってだと思っていました。甥といっしょに生活し
ようと思っていました。
自分の衣食住に、ちゃんと関わること。
「こんなもの、作ったぞ。食べないか?」
「じゃ、おじちゃん、これ食べてみなよ」
とか
「あそこのペンキ、いっしょに塗っちゃおうぜ」
みたいな生活。

それは、私にとっても、理想の生活だったんですね。高嶺の花。

まず、とにかく私が忙しかった。私塾とフリースクールをやっていたので、夕方
から夜中まで、多種多様の授業を抱え、準備はいくらやっても足りるということ
がない。

進学塾をやる気はなかったので、いろいろと不安的な子どもたちの面倒を、何人
も見ていました。いまがコミュニケーションのとりどころ、いまが信頼の作りど
ころ、という局面がいくらでもあります。

私に暇があれば、まず本を読みたいし、自分の研究をしたい。

甥は、安定していて育てやすい子だった。
で、ついつい後回しになりました。

小学生の年齢のうちは、夜、おじちゃんの仕事がいつ終わって、相手をしてくれ
るかと待っている。でも、家に戻ったおじちゃんは疲れ切っていたり、他のこと
で頭をいっぱいにしていたり。

夜寝るときに、即興のお話しをしてあげるのだけは、欠かさず続けました。それ
は大事なことだった、いいことをできたな、と思います。

食事は、甥の母親が週に2回くらい来て、作り置きをしていく。衣類も手配して
いく。
それと、同居しているおじいちゃんが、口は何も出さないけれど、いつもお弁当
を買ってきたり、あれこれと面倒を見てくれる。

そうすると、いっしょに生活を作っていくどころではありませんでした。

「生活中心のホームスクールをやりたい。その中での創意と工夫、責任感」と思
って、ぜんぜんそうできなかった。もっといっしょに歌や絵を楽しみたかった。
などなど、私の不完全燃焼感はいっぱいありました。

でも、今から見ると、おじちゃんも、母親も、おじいちゃんも、この子が好きで、
それなりあれこれとサポートしていました。放任家庭に近いものだったけれど、
眼を離してしまったわけではないし、それなりの暖かみはあった。干渉的では絶
対になかった。だから曲がらずに育った。そんなところかと思います。

それなりになんとかなっていたのだなあ、と今になると思います。

古山明男

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古山明夫

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