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天職を見つけること

古山です。

(信濃毎日新聞2018年12月26日『コンパス』欄に書いたものに加筆したもので
す)

 お父さんお母さん方と子育てについて話をする機会があると、こう話すことが
多いです。一人一人の子供が自分の天職にたどり着くことを、学校任せにすべき
ではありません。天職を持つというのは「これはたとえお金をもらわなくてもや
る」ということをやっていて、しかも食えていることです。これは、いまの社会
ではなかなか手に入らない幸福なのです。

 現在の学校教育は、19世紀の後半に生まれた、国家と産業のための教育です。
先生は、集団授業をするために訓練を受け、給料をもらっています。先生の立場
からは、ある子の個性とは、その子の授業態度と集団適応として見えています。
 先生は40人の子供をみていますから、それ以上のことを期待するのは、期待す
るほうが無理です。

 一人の子供の天分がなんであるかは、その子が自由に活動できる時間がないと、
なかなかわかるものではありません。何かに天分があるというのは、それに興味
を持って、「これはどうなっているのだ。こうしたらどうなるのか」と食らいつ
いていくことです。それはまったく自発的であることに美しさがあります。子供
の自由な時間に付き合っている親のほうが、その子の天分に気がつきやすいので
す。

 数学的才能や文学的才能など、学校の教科と重なりやすい天分ですら学校の成
績に反映しているとは限りません。まして、教科の枠組みでは捉えようのないこ
とに天分を持っている場合には、学校教育の網にはひっかかりません。

 私の知っているある子は、動物の体調や気持ちを読み取れていました。競馬の
勝ち馬すら当てていました。運動選手の誰が勝つかも、よく当てていました。
 ある子は他人のオーラが見えていて、「真っ黒なオーラの先生が教室に入って
きたと思ったら、えんえんと生徒を叱り始めた」というようなことを観察してい
ました。「先生がお説教しているうちに、みんなのオーラも真っ黒になっていっ
た」そうです。
 ある子は、不思議な聡明さを持っていて、誰とも闘わないし、自我の壁を作ろ
うとしない。普通の意味では学習障害スレスレなので、攻撃的な子供たちからい
じられていました。しかしだからといって、恨みも闘いもしない。学校の授業が
わからないときは瞑想をしていました。

 学校の教科教育は、不足しがちな知識やスキルを身につけさせてくれます。し
かし学校教育が教育のすべてであるとして、家庭での自由時間を教科学習に捧げ
させるのは、本末転倒だと思います。

 子供は、自分がほんとうにやりたいことを認めてもらい、支援してもらうと、
ものすごく伸びます。ある子にとっては、それは縄文土器を自分で作ってみるこ
とでした。ある子にとっては親への誕生日プレゼントを自作することでした。あ
る子にとってはチェロを演奏することでした。

 与えられた「為すべきこと」のリストをこなして良い評価を得ているだけでは、
どうしても行き着けないものがあります。

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古山明夫

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