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魂の栄養

古山です。

子どもを育てるには、おいしくて滋養のあるものを食べさせます。
それが親の義務であり喜びです。

子どもの魂にも、おいしくて滋養のあるものがあります。
真、善、美と呼ばれるものです。それを食べさせるのが、子どもの成育に関わる
者の義務であり喜びです。

真、善、美いずれも、教え込むものではなくて、触れさせる、食べさせるという
性質のものです。

食べ物でしたら、「このアイスクリーム、おいしいね」と言って、子どもといっ
しょに食べる喜びがあります。
それと同じように
「きょうの夕日、きれいだね」といっしょに見とれる。
「渡り鳥がやってきたよ。遠い北の国から飛んで来たんだね」と池のカモに心を
寄せる。
「お前が生まれてきたとき、ほんとうに嬉しかったんだよ」と子どもに語る。
そんなような喜びがあります。

子どもに教えたことが伝わるのではなく、子どもにしたことが伝わっていきます。

特に善悪は、「あれは善い、これは悪い」と誉めたり罰したりして教え込むもの
ではありません。子どもは善悪を感じているのです。

私が子どものころは、戦争のほどぼりがまだ冷めやらないときでした。母がよく、
食料難の時代のことを語っていました。そのときに、芋雑炊を食べていたことだ
けでなく、親切な人のことも語るのでした。「ハットリさんは、来るたびにお米
や野菜を持ってきてくれてねえ。有り難かったねえ」という話は、そういういい
人がいるのかと、聞く度に嬉しいものでした。

子どもが、ある絵本を何度も何度も読んでくれというのは、その本の中の真善美
のどれからが、子どもにヒットしているのです。

子どもは天国からやってくるのだということは、ほんとうだと思います。幼児で
あっても真偽、善悪、美醜がわかるからです。

たとえば、子どもは「この人はウソをついているかどうか」に鋭い感覚を持って
います。子どもはまだ知識によって真偽を判別することができません。そこで本
能的にウソをかぎ分けて、誰が信頼できる人であるかを判別しているのです。

真、善、美が感じられたとき、子どもにとって世界は秩序あるものになります。
そうすると、子どもは安心して世界を探索し、自分の能力を発達させるという仕
事に取り組みます。
子どもにまず食べ物を確保するように、真善美の栄養がまず必要です。

そのとき、立派な人の言葉や芸術作品を伝えるよりも、日常生活の中で見つかる
ちょっとしたことのほうが、栄養価が高いのです。
それは、われわれが狩猟採集民だったときに、「この実は食べられるんだよ」と
藪の中の植物を子どもに示すようなものです。自分でみつけ、自分の手で手に入
れることが、生きる力と知恵になっていくのです。

大人でも子どもでも、真、善、美のどの面をまず生きようとするかに個性があり
ます。どうなっているかを知りたい人、善いことをしたい人、美しさを求める人
です。そのどこから入っても、他の二つはついてきます。
子どもでも、どの傾向が強いかはあります。たとえば、美を中心に生きる子であ
れば、その子は美しいものに見とれ、美しいものを作ろうとしていて、知的なも
のに対する関心は弱いかもしれません。それならば、美しいものでその子を取り
囲むことから始めればいいです。

将来、どうやって食っていくかは、最後についてくるおまけのようなものです。
その人から、真なるもの、善なるもの、美しいものがにじみ出ていれば、他の人
がその人をほっておかないです。

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古山明夫

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