古山です。
昨日、首藤さんの「読み書き遊室」を開催しました。
首藤さんは「子どもに強制しない」ことを基本方針にして、言語教育に取り組ん
で来た人です。
昨日は自分の名前でカードを作り、それをカルタにして遊ぶというものでした。
首藤さん、子どもたちがカード作りをしているのを見て回り、「だいじょうぶ、
だいじょうぶ」ということを伝えています。言い方も語調も柔らかい。
「字は読めればいいんだよ」
書き順、トメ、ハネ、一切言いません。
子どもたちがカードを作ると、どうしても早い子と遅い子ができます。すべての
子ができあがるのを待ってもいられない。だいたいみなさんできたかな、という
ところで、カルタ取りを始めます。
終わっていない子には「ゆっくりやっていていいよ」という声かけ。
でも、みんなが集まってワイワイ始めれば、遅い子もじきにやってきます。
やっている遊びは、伏せてあるカードをめくっていって姓と名を合わせる、神経
衰弱タイプの遊びです。このタイプの遊びを普通にやると、勝つ子は燃えるけれ
ど、負けた子はやる気をなくします。そこで、
「取る人の順番を決めておいて、各人が1枚ずつめくる」
「取れたら続けてめくれるのではなく、一枚めくったら次の人に順番を回す」
「いったん表にしたカードは、そのまま表にしておく」
でやっていきます。
首藤さん
「徐々に、徐々に、できていけばいいんだ」
「少しでも、言葉と、言葉の文化に近づくことだ」
授業を見ていて、教育方法そのもので深く感じるものがありました。
学校の、何かを教えては評価して問題点を指摘し、一つ一つ確実にしていくとい
うやり方が、大問題なのだということです。
それにはいつも「いま、ここで、これを習得しなかったら、ここから先でたいへ
んな苦労をする」という心配がつきまとっています。
そこで、強制する、競争させる、修正をいれる、問題点を指摘する、反復練習さ
せる。
いつのまにか、「間違いに気づかせることが教育である」、ということになって
しまう。
子どもたちは、「いつダメ出しされるかわからない」とびくびくしながら、自分
で感じたり考えたりすることを放棄して、何が正解であるかに合わせようとしま
す。
失敗が多いと、そもそも取り組むのを避けようとします。
教えられそうになると、逃げて回ります。
親たちもこの教育方法で育てられていますから、家庭での学びも、しつけも、
「一つ一つ、きちんと仕上げていく」
になりがちです。
「いま、ここで、この子がこれができないための将来への心配」で、心が張り裂
けそうになってしまうのです。
だいじょうぶなんです。
どの子にも、自然な学習本能が備わっています。
そこにちょっと噛み合っていくだけです。
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