エッセー

子どもが編み出す算数基礎

子どもがどのように数を数えられるようになり、計算をできるようになるか、か
なりの研究がなされています。

多くの子が、独自の数え方と足し算引き算を編み出します。

だいたい4才で、物の数がわかり、数えられるようになるそうです。
その数え方は「いち、に、さん、し....」とは限りません。身体の部位に対
応させることが多いようです。

昨日聞いた話では、ある子は「め、め、はな、くち」という数え方をしていたそ
うです。

私の知っているある子は、2、4,8、16という数を用意して、それですべて
の数を表そうとしていました。一人で勝手に2進法にたどりついています。
これは、コンピューターに使われている体系で、合理的ということからすれば、
われわれがなじんでいる10進法より合理的です。

ある子は、独特の筆算方法を発明していました。(ちょっと私にはよくわからな
かったのですが)

指を使う方法は、広く見られます。
指を使うことを禁じることもありますが、その必要はありません。より速い方法
があるということに、自分で気がつくことに意義があります。

ホームスクールだからできる算数教育法は、この子どもが自然にやっている数え
と計算を尊重することです。
もし、お子さんがなにやら不思議な数え方や計算をしているのに気がついたら、
ぜひ記録しておいて、私に教えて下さい。

日本で、まだそういう研究がないのです。(諸外国には、かなりあります)

そのため、学校で教えないと、子どもは算数ができるようにならないと信じられ
ています。

そんなことはありません。
むしろ、学校の体系を押し込まれ、マルバツをつけられるため、自分の感覚で数
を捉えることができなくなった子どもたちがたくさん生まれているのです。

もちろん、現在の算数のシステムを理解してもらうことも大事なのですが、慌て
る必要はありません。それより、自分の理解と納得から切り離されないことです。

 

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古山明男

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かまってほしい

古山です

子どもは、親にかまってほしいものです。
誰だって、自分が子どもの時に覚えがありますよね

大人の立場からすると「かまう」や「かまってやる」です。

子どもは、よくかまってもらっていると、自分自身になっていきます。自分がど
う感じているかが、わかってきます。

「かまう」はずいぶんとニュアンスがあって、外国語に訳すとなったら、ちょっ
と苦労するのではないでしょうか。
自分だけに注意を向けてもらっている。
遊びにつきあってもらう。
活動を引き出してもらう。
手加減してもらっている。
そんな意味が含まれています。

たぶん、日本人は子どもをすごく大事にしてきたから、その日本文化の中に「か
まう」という言葉が根付いているのでしょう。

「かまう」は、完全に対等の関係ではなくて、大人の立場から子どもと付き合う
関係です。
子どもの意見と自主性を尊重することも大事なことなのですが、現実には大人と
子どもの力量の差がありますので、対等に「では、キミの意見は?」と向かい合
っていると、子どもがしどろもどろしてくる。小学生くらいまでの時期は、「か
まってやる」関係を基本にしていたほうが、いいのだと思います。

シュタイナー教育が、14才までは「自明な権威者」の元で育てるんだ、と言いま
すが、そこに通じるものがあります。シュタイナー教育は、「権威者」という言
葉を使うから誤解を招くのであって、ようするによくかまってくれて、よくなつ
いていて、その人の言うことはすっと耳に入る、という人のことです。

学校で、子どもたちは「かまってもらっていない」感じです。
一人一人が達成を求められ評定されている、ミニサラリーマンです。
そのため、個人として成長しきれないのだと思います。目立ちたがり、嫉妬、ど
つき合い、あるいは逆の逃げ隠れが多くなります。

そこで、ホームスクールの極意なのですが。
子どもをよくかまっていることだと思うのです。

「教える、教えられる」の関係になろうとすると、家庭ではなかなかうまくいか
ないものです。それより、「通じる」関係になっていって、生活を楽しんでいる
のが、家庭という場をよく生かしています。楽しんでいるうちに、子どもがもう
ちょっとクールな関係がほしくなって、「習い事がしたい」なんて言い出す。そ
んなことになれば、けっこうなことです。

 

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古山明男

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文字を教えるなら

古山です。

(これ、なんとなく浮かんできた詩です)

もしも文字を教えるなら

こどもに、心のこもった手紙を書こう

きょうたべたプリン、おいしかったね

とか

サンタクロースは、いまトナカイにえほんをよんであげているよ

なんて

読めない字があった、言ってね。声にするから
こどもが読めたとき、ほめたりはしないよ

できたかできないか気にする先生は、どこかに行って
何歳だからこれくらい、はどこかに行って
だって、わたしと子どもは同じ時間に生きているから

 

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古山明男

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評価ではなく 遊び心を

古山です。

おもしろい心理実験を紹介します。

バージニア工科大学の心理学者達が、大学の学生センターで学生達がビリヤード
をするのを見守りました。
最初は目立たないように観察し、その後、プレイヤー達に自分のパフォーマンス
が評価されていることがわかるようにしました。

その結果、熟練者は観察されているとわかると成功率があがりました。
新米は、成功率が落ちました。

他の実験でも同じような結果が出ました。
自分のパフォーマンスが観察され評価されていると知ると、すでに高いスキルを
持っている人たちの結果は良くなり、スキルに乏しい人たちの結果は悪くなりま
した。

この結果は、難しい数学の問題を解いたり、哲学者への反論を考えるなど、知的
な課題ではよりいっそう顕著に表れました。

創造的な思考や、難しいスキルを学ぶ場合には、観察者あるいは評価者の存在は、
ほとんどすべての参加者の妨げになりました。

評価者の地位が高いほど、そして評価の結果として生じるものが大きいほど、学
びの抑制になりました。

評価は、致命的な欠陥を持っているのです。それは、新しいスキルを学んだり、
新しい問題解決の仕方を身につけたり、創造的な活動に取り組んだりする際の、
理想的な遊び心の状態とは正反対の心理状態を作り出します。

(「遊びが学びに欠かせないわけ」 ピーター・グレイ著 築地書館 p173-4
より)

 

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古山明男

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学ぶ同期

古山です。

もしも自転車に乗ることが学校の正課であって、台の上でバランスを取る訓練、
ペダルのこぎ方の訓練、とっさの場合の対応訓練、自転車の構造の筆記試験など
があったら....、自転車に乗れない子、自転車を嫌がる子の続出になるでし
ょう。

子どもが自転車に乗れるようになるとき、誰かが自転車に乗っている姿を見て、
「自分もできるようになりたい」と思うから、自転車の練習をするのです。それ
を、もし、ただペダルをこがされていたら、いったい何のために何をしているの
かわかりません。

それと同じようなことが、学校の勉強で起こっているのだと思います。自分がい
ま何のために何をやっているのかわからないから、さっぱり身が入らないのです。

現代の学校教育は、工場労働の影響を強く受けています。誰でもできるような単
純な動作や作業に分解して教えれば、誰でもできるようになる、という原理に影
響されています。

大人なら、「金のため」や「命令されたから」ということでやりますが、子ども
はついてきません。
ご褒美で釣ればご褒美だけかすめとろうとしますし、脅せば言われたことだけや
るけれど全般的な能力低下が起こります。、

子どもが身を入れて何かを習得しようとしているときの動機に、大きく分けると
3通りあると思います。

・内発的
歩く、しゃべる、絵を描く、積み木を積む
・誰かがやっているのを見て、同じことをしたくなった
野球、スケボー、たいていの玩具
・信頼している人が教えた
いろんな習い事

子どもが特に関心を持っていないことても、「これをやってごらん」と言われれ
ばついてくるのは、信頼関係がある場合だけです。
単純に、簡単なことだからやる、というわけではありません。

信頼関係がないのに教えようとすれば、それは何らかの賞罰、競争、説得に訴え
ざるを得ない。
学校教育の多くは、そうなっています。
そして、子どもに無理をさせると、教育が為されたような気になる。

幸福な人生を歩みたかったら、なんだか知らないけどやりたくなった、誰かのし
ていることを自分もしたくなった、心から信頼できる人だからついていきたくな
った、そういうことで学ぶことだと思います。

そのとき、すべての人や事物は、いつも深い意味を持って現れるようになります。

 

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古山明男

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人類200万年の知恵が遊びの中にある

古山です。

追いかけたり逃げたりするのに知恵の限りを尽くす

動くものを追いかけ回す

何かを投げたり発射したりして命中させる

隠されているものを探し出す

わずかな証拠から、見えないものを推測する

道具を作り使いこなす

仕掛けをつくる

言葉を使いこなす

食べ物を調理する

仲間と共同作業をする

あり合わせのもので住まいを作る

多数の動植物を識別し、その性質を把握している

これらの性質によって、人類は数百万年の歴史を生き延びることができました。
そしてこれらの性質がそのまま、子どもの遊びの内容であることに、私達は驚か
されます。これらのことをするのは楽しいし、上達したくなるのです。遺伝的に
そのようにできています。

生きる力を育てるには、子どもの遊びを大事にしていれば、それでいいようにで
きているのです。

もちろん、現代社会を生きるための知識・技能も必要です。それらは主に、文字
を扱う能力と数式を扱う能力です。しかし現代の教育は、文字と数式をあわてす
ぎているし、結論の押しつけです。そのためたくさんの落ちこぼれを出していま
す。

文字や数式による教育は、本格的には高校生くらいの年齢からだと無理がありま
せん。それまでは、本人の遊びと生活の中に溶け込んでいる文字や数式を吸収し
ていればよい。親子の信頼関係があるならば、教えるのもいいことです。

好きな子は文字でも数式でもどんどん進んでしまいますが、それはご自由に。本
人にとってはただの遊びです。

このような教育方法で大丈夫です。
というか、たくさんの子どもを見てきた経験から、これが一番無難な教育方法だ
と思うのです。

まず、人類古来の知恵に接続する。その基盤の上に現代を載せてくる。それが人
間の性質に基づいていると思われるのです。子どもの遊びの尊重は、今は小学校
に上がるところで打ち切られますが、それでは不十分です。

 

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古山明男

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人間として育つために

古山です。

子どものころ、たくさんの、言葉にしようもない感覚や気分にいつも浸されてい
ました。大人になったら、それを感じられなくなって、内面にあるのは言葉だけ
になってしまいました。

たぶん、その言葉にしようもない気分が、とても大事なものなのです。
その大事なものと切り離されると生き方が浅薄になってしまいます。大人になっ
てからの私自身が、なんという言葉だけ人間であったことか。

自分でもわけのわからない気分がやってきたら、じっとそれを感じ取っている。
安易に言葉に置き換えてしまわない。そのことを、ある程度年齢がいってからで
すが、心掛けていました。

きょうも、わけのわからない気分がありました。それに意識を集めて、1分くら
い持続できた。
だからどうとしうこともない、わけのわからないものは、わけのわからないもの
のままでした。

ところが、数十分後、ふっと自分に自己嫌悪が湧いているのを感じました。

ああ、これ、これ、これなんだ。やっと感じ取れた。
とつらいような、嬉しいような不思議な気分でした。

小、中、高校くらいのころ、いつも自己嫌悪でいっぱいでした。「あの自己嫌悪
はどこに行ったのだろう」
と思っていました。
高校が終わったころから、享楽的な遊びで紛らわせたり、言葉で言いつくろった
りすることを覚えました。

 

やっと見つけました。
自己嫌悪を感じると、「嫌なあいつ」「しでかしてしまったあんなこと」を思い
出し、それに憎しみの感情をなげつけることで、紛らわしていたのですね。

そうだったのか、と感慨ひとしお。

分析ではありません。分析だとあらかじめ、発見を予定されている項目が用意さ
れている。そうではなくて瞑想のようなもの。

物言わぬものに、何がなにやらわからないまま、「あなたはなあに、教えて」と
意識を向けている。そうすると、それが自分の秘密を明かしてくれる。

たぶんこれが、自分自身を相手にするときと、子どもを相手にするときの、いち
ばん大事なこと。
私にできる、最善のこと。

たぶんそれは、愛と呼んでもいいもの。

 

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古山明男

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子どもの考える力をつけるのに

古山です。

自分の考えをまとめ、発表する力は、練習によってつけることができると思われ
ています.私は、そうではないと思います。

「こういうふうに突っ込まれるんじゃないか」、「こういう反論を食うのではな
いか」という警戒心が、考えの形成を妨げているのです。

威圧的な感じのする人、話をきいてくれそうにない人の前でしどろもどろしてし
まうことは、誰でも経験していると思います。

私もそうです。これはすんなりとは聞いてもらえそうにないと思うと「ええ、か
くかく事情がこうなっておりまして、みなさまはこうお考えかもしれません
が....」などと一生懸命に前置きしているうちに、相手に「そんなことあり
ませんよ」と一言いわれて、あとはしっちゃかめっちゃか、なんてことよくあり
ます。

子どもだったり、気の弱い人だったりすると、言葉そのものが出なくなってしま
います。
考えることすらできなくなります。

そこを「いいから、はっきりいってごらんなさい」なんて言われると、ますます
混乱してしまう。

かなり力がついた段階では、訓練的なことも役に立ちます。

でも、子どもは訓練しようとしていると察しただけで、身構えます。とくに家庭
の中ではそうです。

それより、いっしょに楽しいことをやっているのが一番です。

不登校の子供の援助を長年やっていまして、はじめはカウンセリング的なことを
中心にしていたのですが、それより一緒に遊んだほうがはるかにいいということ
に気がつきました。

 

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古山明男

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子どもに内蔵された自己教育システム

古山です。

人間は生後1年くらいで歩くようになります。そのときに、ハイハイから始まっ
て、立ち上がり、歩くまで、とてつもない時間と労力をかけています。
それと同じような発達システムが、その後もずっとあります。

長年子どもとつきあってきて、子どもの遊びの研究をしていました。その結論と
して、こんなことを考えています。

人間にとって遺伝として組み込まれている発達システムは、子どもの遊びとして
現れてくる。それは、数百万年にわたる人類の歴史に基づいている。

それに対して、産業社会に義務教育として現れた教育は、せいぜい最近の
200~300年の社会のことしか考えていない。そんな短い期間に遺伝的に対
応できるはずがなくて、子どもたちに無理な負担をかけている。それで、国家主
導型教育はつまらないし、狭い目的にしか役立たないのだ。

長野の信濃毎日新聞に毎月コラムを書かせてもらっています。今回は遊びの意味
について書きました。

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最近、勉強をしなくても成績のいい子どもたちと付き合う機会がよくあります。
彼らに共通しているのは、自分で遊びを創り出すのがうまいことです。「この性
質は面白いぞ」「これを使って、こんなことができないか」で、すぐに遊び出す
のです。

ある中学生と円盤状の磁石を使って実験をしているうちに、その子が「これで
おはじきしてみよう」と言い出しました。「いいね」とつきあったら、これがな
かなか面白いのです。磁石同士の反発力を利用するのは、直接ぶつけるのと感覚
が違います。その子とは、「つまようじでやったらどうだ?」、「鉛筆は?」と
やってみて、その度におもしろいことが起こりました。

その子の同級生で、やはり勉強もしないのに成績がいい子は、母親がボード
ゲーム好きで、子どもたちといっしょに毎晩のようにボードゲーム大会をやって
います。

ある大学生と、遊び道具作りの研究をしています。この人は、よくまあこんな
ことを考えつくものだということをちゃかちゃかと作ります。その人は、高校時
代はロボットコンテストで世界大会まで行っているし、いまは、なにやら高等数
学を使いこなして、人工知能を自分で作っています。それらがぜんぶ、遊び感覚
です。

モノをいじり回し、その性質を知って使いこなすというのは、最高の遊びなの
です。それは遊びであり、なおかつ研究や実業の第一線で活躍できる力です。

遊び創りがうまい連中がどういう教育を受けているかと尋ねると、やはり母親
が遊びの大切さを理解していました。幼児教育の段階だけでなく、小学校以降も
遊びをよく支援してもらっています。それと、学校歴のどこかで、面白がること
の真髄を伝えることのできる教師に出会っています。

いいですねえ。私は、結局のところ「今は勉強しなさい」と言う教師にしか出
会えなかった。

遊びというのは、遺伝に組み込まれた人間の自己教育システムだと思われます。
人類が狩猟採集の時代に知恵と工夫で身につけたものが、子どもの遊びとなって
現れてくるのです。そういう研究が最近現れてきていて、なるほどと頷かされま
す。教育は、子どもの遊びとうまく調和できないとうまくいくはずがないのに、
と思います。

(信濃毎日新聞 2018年5月23日朝刊「コンパス」欄)

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古山明男

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無題

子どもが次のようなことをしているとき、その価値を認め、それを援助してもら
えることは、子どもにとってたいへん嬉しいことです。子どもは自己教育能力を
持っています。通常の学校教育では、これらの意義は深く考えられていませんが、
実は人間発達の基盤に根ざしています。

・自分の運動能力を伸ばそうとしている。

・動物に関心を示し、観察、捕獲、飼育などをする。

・植物に関心を示し、観察、採集、栽培などをする。

・自動車、電車、飛行機などに関心を示し、見る、乗る、模型を作るなどする。

・なにかコレクションをしている。

・なにか仕掛けを作っている。

・なにか実験している。

・なにかの道具を使いこなそうとしている。

・香りに敏感。

・味覚に敏感。

・料理をする。

・絵を描きたがる。

・粘土で何か作る。

・ボール紙や工作用紙などで何かを作る。

・物語を作る。

・歌を歌う。

・楽器を演奏する。

・踊る。

・マンガを読む。本を読む。

・ボール(どんな種類でも)で遊ぶ。

・野球、サッカー、バスケットボールなどをする。

・火で遊ぶ。

・水で遊ぶ。

・砂いじり、泥いじりをする。

他にもたくさんあります。

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