古山です。
生き物が育つ、生き物を育てる、というのは、「こうなれ、ああなれ」と言うこ
とではなくて、光に当て、水をやることなのだと思います。
もう、20年以上も前になります。
ふと、自分の中に憎しみがわき起こっているのに気がつきました。
自分にこんなものがあったのだ。憎むのだけはいけない、と思ってそれまで生き
ていました。でも、自分の中に確かにある。
なんだろう。
きっと、なにかトラウマがあるのだ。とにかく観察してやろうと思いました。
だんだんと、しょっちゅう現れるようになりました。
きっと、幼児期のこれだとか、あのときあんなことをされたときの傷だとか、そ
んなことは次々と思い当たるのですが、どうもそれだけでは説明しきれないこと
が多い。
誰かが憎らしい、とか、あの出来事を憎むとか、明確な対象がある場合もあるし、
ない場合もある。
「わかった」と思うたびに、それだけでは説明しきれなくなります。
そのうち、自己流の軽い瞑想法を覚えました。自分の感情に入り込んでいくと、
まず、憎しみが出てくることが多い。いろんな場合があって、何によって引き起
こされているのか特定するのがすごく難しい。しょっちゅう付き合っているため、
気心が知れてきて、かえって、説明できなくなります。
そのうちに、どうやら、憎しみはじぶんが元気になるためにしていることだ、と
いうことに気がつきました。ちょっと苦しいときに「チキショー」とつぶやいて、
エネルギーを湧き出させようとしますね。あれなんです。
そういう、「元気出しエネルギー」なのだ、というのが、それで正解だったのだ
と思います。だんだん、回数が多くなり、程度が弱くなってきます。
いつのまにか、「憎しみ」は、ものすごく変容しました。いまも、変容している
最中です。
それは、元気になるために、ちょうど自動車のエンジンをブルルンとスタートさ
せるようなエネルギー。
「怖い」だけで引きこもっているエネルギーが、対象へと向かおうとするときの
勇気づけ。
そんなような、積極的な意味合いのこもったものになってきます。もう「憎し
み」と名付けていいのかどうか、はっきりしないときもあります。
これから、どうなっていくのか、おもしろいドラマを見ているようなものです。。
私が筋書きを書くことは出来ない。
これが、もし「憎しみはあってはならない」と言い続けていたら、こんな変化は
起きなかったろう。外から見た聖人君子になっていたかもしれないけれど、そう
すると「~国の侵略に備えよ」とか「○○党が諸悪の根源だ」とか言うようにな
ってしまうものなのです。
おなじようなことを、子供たちにしてきました。
誰からも白い目で見られていて、うつろな感じになっている子がいると、なんだ
かほうっておけなくて、「おいで」と言っていっしょに戯れていました。
そうしたら、いつのまにか教育の仕事に深入りしていました。
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