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人間として育つために

古山です。

子どものころ、たくさんの、言葉にしようもない感覚や気分にいつも浸されてい
ました。大人になったら、それを感じられなくなって、内面にあるのは言葉だけ
になってしまいました。

たぶん、その言葉にしようもない気分が、とても大事なものなのです。
その大事なものと切り離されると生き方が浅薄になってしまいます。大人になっ
てからの私自身が、なんという言葉だけ人間であったことか。

自分でもわけのわからない気分がやってきたら、じっとそれを感じ取っている。
安易に言葉に置き換えてしまわない。そのことを、ある程度年齢がいってからで
すが、心掛けていました。

きょうも、わけのわからない気分がありました。それに意識を集めて、1分くら
い持続できた。
だからどうとしうこともない、わけのわからないものは、わけのわからないもの
のままでした。

ところが、数十分後、ふっと自分に自己嫌悪が湧いているのを感じました。

ああ、これ、これ、これなんだ。やっと感じ取れた。
とつらいような、嬉しいような不思議な気分でした。

小、中、高校くらいのころ、いつも自己嫌悪でいっぱいでした。「あの自己嫌悪
はどこに行ったのだろう」
と思っていました。
高校が終わったころから、享楽的な遊びで紛らわせたり、言葉で言いつくろった
りすることを覚えました。

 

やっと見つけました。
自己嫌悪を感じると、「嫌なあいつ」「しでかしてしまったあんなこと」を思い
出し、それに憎しみの感情をなげつけることで、紛らわしていたのですね。

そうだったのか、と感慨ひとしお。

分析ではありません。分析だとあらかじめ、発見を予定されている項目が用意さ
れている。そうではなくて瞑想のようなもの。

物言わぬものに、何がなにやらわからないまま、「あなたはなあに、教えて」と
意識を向けている。そうすると、それが自分の秘密を明かしてくれる。

たぶんこれが、自分自身を相手にするときと、子どもを相手にするときの、いち
ばん大事なこと。
私にできる、最善のこと。

たぶんそれは、愛と呼んでもいいもの。

 

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古山明男

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古山明夫

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