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競争は教育に適しているか

なぜ、こんなに教育問題がおこるのか?

脅し、辱め、褒美で釣って子供に教え込もうとするから。
そして、競争させるから。

セールスの世界では、競争は当たり前だ。セールスマンの個人成績が張り出さ
れる。優秀者には報奨金が出される。成績の上がらない者は、おおっぴらに、あ
るいは微妙に叱責される。あらゆる面で、成績は待遇に関係する。すると、成績
上位者は輝き出す。成績下位者はくすんでくる。

最も優秀な連中は、がつがつぎすぎすしたセールスマン臭さがないものだ。彼
が売りたいと思っているものを潜在的に求めている客を効率よく見つけだし、商
品の良い点を的確に伝えられるのだ。

普通の成績の人たちはセールスマンらしいセールスマンである。マニュアル通
りのことをし、そこそこの努力をし、そこそこの成績をあげる。

その下になると、やる気がない。彼らは「こりゃ、がんばっても無駄だ。いつ
やめようか」と考えている。そして、いつも立ち去る人間がいる。

あなたが経営者で、手っ取り早く従業員を働かせたいなら、競争させるだろう。
「さあ、誰がこのほうびを手に入れるかな」と、地位や金を差し出す。誰かがそ
れを手に入れる。「皆も彼のようになろう」と激励する。

そのほうびは一人分しか用意してないのに「皆も」と言っていいのか?
いいのだ。みんな、自分がそれを手に入れられるかどうかしか考えない。ほうび
は一人分ですむ。安上がりだ。
いっぽうで、働きの悪い者をコキおろす。「さあ、あれが、君たちがなっては
いけない見本だ」と。どこの職場でもみなが「ああはなりたくない」と思ってい
るドジで無能な人物がいるものだ。実はそれは作られた存在だ。その人がいるか
ら皆が「あれに比べれば自分はまだましだ」と思える。
彼は実は必要な存在だ。彼がいなくなれば、他の誰かがその座につく。

経営者の目的は利潤をあげることだ。人を育てることではない。去っていった
人間に対して責任をとる必要はない。しかし、「一人一人を大切にする」ことを
目的とする学校が平気でこんな競争を持ち込むのには賛成しかねる。
競争させていると、全員が有能になっていくということはない。やる気を出し
た人間と、やる気を失った人間が必ず両方できてくる。競争は「測れる能力の範
囲でだが、少数者がすごい能力を出してくる」システムである。反面、多数の落
ちこぼれを出すのは覚悟しなければならない。また、競争すれば画一化する。

全員を来させよ、と言っている学校が、多数の落ちこぼれ必至のシステムを採
用していることは、どうもよくわからない。
最近、小学校での5段階の相対評価はなくなってきた。しかし、テストによる
点数評価はいつも行われている。中学では内申点がある。学校は陰に陽に「あん
たはえらい、あんたはだめ」と点数で生徒同士を比べさせて、動機づけている。

しかし、学校同士の優劣はつけない。ほんとうは、学校間の格差も先生間の格
差も歴然とあるのだ。先生達は、自分が競争にさらされたくはない。競争がどん
なに大きなストレスを生み出すかは、自分たちで知っている。「ダメな学校」
「ダメな先生」を作り出さないように、細心の注意を払っている。それがわかっ
ているのに、生徒同士を比較しては、優劣をあおる。

それで、生徒たちが荒れすさむ。
子どもたちは、愛してほしい、認めてほしいの一心である。それを利用されて
いるのである。

競争はさもしい。教養ある人士なら、競争は試合やゲームの中でだけ思い切り
やる。あとは勝ち負けや優劣にこだわらないものだ。
あなたがテニスを楽しむグループにいたとする。そこに新たに入ってきた人間
が、自分よりうまい人間に対して競争心をむき出しにし、自分より下手な人間に
は侮蔑の念を隠さない。勝ち負けにこだわり、勝てば有頂天になり、負ければ復
讐心を燃やす。あなたはこのような人間が好きだろうか。このような人間類型を
助長するようなことが教育的だろうか。

競争させないと、子どもたちはやる気を起こさない、ですって?
子どもに一方的に押しつけてばかりいるからですよ。

(「たらんと広場」1998-5-25 より)

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古山明夫

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