古山です。
私は、在学ホームスクーラーだった、と言いました。
学校でなくても学べる、と。
でもこの言い方は、学校中心の世界観に住んでいる人を説得したい時に使うため
のものです。
子どものときは、「学ぶ」なんていう感覚はなかったです。「遊ぶ」ということ
も知らない。そこになにかがあるから、観察し、いじり、組み立てたり、バラし
たりする。それの持っている性質と付き合い、使いこなそうとする。
そこに木があるから登り、そこにバッタがいるから突ついてみる。
描きたい絵があるから絵を描き、土管があるから隠れ家にする。
その瞬間が、それ自体として生きている。
そういうとき何をしていても、ストーリーが湧いてきます。すべては、物語世界
の一部として現れてきます。
スヌーピーのマンガで、スヌーピーが犬小屋の上に寝転がって、なにかを夢想し
ています。ときにはエースパイロットになって、飛行機を操縦しています。あれ
なんです。
私は、台所の流しの流れ口に雑巾をつめて水をため、いろんなカップやらものを
浮かべて動かしたり、沈めたりして遊ぶのがお気に入りでした。そのとき、カッ
プや弁当箱は島から島へと冒険の旅を続ける船団であったり、嵐に出会って沈ん
でしまう船であったりします。
そういう遊びをしていたら、後で「浮力」とか「比重」のようなものは、当たり
前のこととして理解できました。しかし、それはただのオマケみたいなものであ
って、大事なことは冒険の旅を続ける船団がどうなるかなのです。
それを、浮力は浮力、比重は比重として定義され、学ばされていたら、それは断
片であり知識であり、血や肉にならないのです。深い必然性を欠いている感じな
のです。
頭の中で紡いでいるストーリー、それがやがて概念の結晶を作りだし、科学にな
り、哲学になっていくのです。
ほんとうに遊べる友達というのは、そういう物語世界を共有できる友達でした。
すべてが生きていて、独自性をもっていて、その中に生きる。
そのとき、結果的には大きな能力が育っています。しかし能力などとはかけらも
意識していません。もちろん、縄跳びが何回できたか、なんてのは数えますけれ
ど、それは遊びのうちです。
学校で教えてくれるものは、なんか生命の源と切り離されていた。
もちろで、学校にはおもしろい授業もありました。学校で学んだこともたくさん
あります。でも学校は、平板で、プラスアルファがない。
そんな感じでした。
人間は『能力』のために生きているのではない。子どもは『能力』のために育つ
のではない。(もちろん、ある角度からみれば能力に見えるのですが、その角度
自体は育てる力を持っていない)
『能力』というのは、商品の値札のようなものだと思います。
古山
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