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あなたが他人を気遣うとき

古山です。

私は、自分が感じたこと、自分が理解したことだけを語るようにしています。
権威者の言葉を語って自分のみすぼらしさを隠すのは、醜いからです。

一人一人の人が、自分の理解と愛情に基づいて生きるときにだけ、新しい世界が
始まります。私はそれを、自分から始めたい。

でも、これから少し、J. クリシュナムルティの言っていることを引用し、説明
させてください。この人は、言葉を超えたものを言葉で伝えるのがうまいのです。

教育について深いことを言うのは、シュタイナーとクリシュナムルティが双璧だ
と思います。どちらも、自分の学校を作っている人です。人間と宇宙の深みにつ
いてシュタイナーは必要な概念を作り、それを構成して伝えていきます。クリシ
ュナムルティは、永遠性の叡智の流れからくみ取っています。

クリシュナムルティの「アートとしての教育」(コスモス・ライブラリー)から

「あなたが他人を気遣うときには、いかなる暴力性も消え去ります」(p164)

クリシュナムルティの文章は、なにか結論があってそれを伝えようと構成してい
くのではなくて、ただサラサラと流れていきます。だから、クリシュナムルティ
を読んだとき、「この人はここでこういうことを言いたいのだ」という結論が残
りません。余韻だけが残るのです。その点では、クリシュナムルティの文章は、
詩と同じです。

それが、クリシュナムルティの気遣いなのです。他人のなかに、硬い結論を生じ
させないように、理解のきらめきが生まれるように気遣っています。

そのサラサラ流れる語り口の中に、ハッとするようなことがたくさんあります。

「あなたが他人を気遣うときには、いかなる暴力性も消え去ります」

もその一つです。
ハッとします。たしかに、そんな気がします。
われわれは、暴力から解放されることが可能なのか。

その続きは、こうです。
「(他人を気遣うとき)怒りも敵意もプライドも消失します。気遣いはまた、注
意を払うことでもあります。注意を払うということは、見守り、耳を傾け、学ぶ
ことです」

クリシュナムルティの哲学、教育論は、人間がマニュアルに従うロボットになっ
てしまわないこと、いつも気づきと感受性で生きることに向けられています。そ
れが愛なのです。

子どもは、親が言うことからたくさんのことを吸収しています。ところが、親が
子どもに教え込もうとすると、さっぱり言うことを聞かなくなります。それは、
子どもたちが不純な動機をかぎ取るからです。子どもたちは、親とは、少なくと
も親とだけは、愛情と気遣いの関係でいたいからです。自分がロボットにされそ
うなことに、敏感です。

人間が他の人間に教え込もうとすることって、みんな、うさん臭さが伴っていま
せんか? もちろん、非常に実用的なことは除きますが。

獲得しなければならない知識や技能のハードルがたくさん並べられ、できたかど
うかテストし、評定する教育。
これが暴力のはじまりです。
このような教育を受けていると、自分に対しても他人に対しても、だんだんと、
できたかできないかだけが気になり、その裏にある生命の営みが見えなくなるの
です。

クリシュナムルティの問いかけから引用します。

「もし愛情が存在するのであれば、あなたの行為もその純粋さから導き出される
ことになります」

私たちは、何かをできるようにさせるだけの教育を受けてきました。そのため、
多くの恐怖や不安を抱えて生きています。
もし、私たちに愛情が存在するのであれば、この恐怖や不安を愛することから始
めることができます。すると、子どもたちがどれほど怖い思いをしているかが共
感できるようになってきます。

やり方が先にあるのではなくて、この共感から、やり方が生まれてきます。
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古山明男

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