学校信仰は終わる 2

日本の学校信仰は感情と感覚に直接に刷り込まれている何かだと思います。
学校からはずれると、ドーンと不安になります。
それは理屈を超えているから、信仰と呼びたくなります。

どこの国でも、その国特有の画一的なものがあるものです。同調しない者を爪弾
きにするものです。
日本は、宗教的な背景がないだけ、まだましだと思います。

あと、日本に教育の自由があれば、ずいぶん暮らしやすい国なのになあ、と思い
ます。教育の自由があれば、子どもの中の善なるものが開花してきます。

 

強制的な教育は、それ自体を再生産する性質があります。

人間、逃げようのないものを押しつけられると、それを批判しようとは思わなく
なるものです。ここはひどいと思いつつそこで生き延びるのは、あまりにストレ
スが大きいことです。どんなところでも、ここは忍耐を養ってくれる、ここで強
い人間になれる、と信じられれば生きていけます。

それと同じで、徴兵制みたいな義務教育があったから、多くの人が学校はいいも
のだと信じ込もうとしました。
これが、ほんとうにいいものだと思っているのと違うところは、脅迫的な信じ方
をしていることです。本当の感覚ではないから、学校への信仰を揺さぶられると、
とたんに不安になってしまうのです。

そういう脅迫的に信じている人たちが、四世代、五世代と続き、次世代を再生産
しました。日本が長らく選択肢のない強制教育を続けたこと自体が、学校信仰の
源だと思います。

 

私たちが、まず幸せに生きてしまうことだと思います。

幸せな人間たちがいるところに、人は自然に集まってきます。制度的なものは、
最後についてくるオマケみたいなものだと思います。

ほんとうに学校が楽しくて行っている子どもたちもけっこういます。そういう家
庭はそれでいいんです。

マナジリを決してホームスクールをやることもない。
学校よりマシなことができると思えば、やればいい。
まずいと思ったら、さっさと学校に戻ればいい。
学校は全国に張り巡らされ無料のセーフティ・ネットです。

ホームスクールは愛を基盤とした教育をするのに、他の教育機関より適していま
す。
家族の関係は、愛なしには成り立たないですから。

愛の基盤というのは、人間を人間としてあるがままに見ることです。
能力の問題ではなくて。

愛と慈しみなしに、子どもは育ちません。

古山明男

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