エッセー

労働への意欲と愛

古山です

子どもが何かを作っているときの労働に対する意欲と愛。

大人になったときのために発展させるべきものは、この意欲と愛に満ちた労働で
あって、お金を稼ぐことではないと思うのです。

 

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古山明男

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失敗しないために生きるのではなく

古山です。

狩猟採集民族が、苦難に直面したときに快活であることの報告がいくつもあり
ます。

「野生への旅 ~いのちの連続性を求めて」で、ジーン・リードホロフ(ジ
ャーナリスト)は、ベネズエラの奥地を進む旅をするときの、イタリア人とイン
ディオの違いを述べています。一行はカヌーで川をさかのぼっていたのですが、
滝があると、カヌーを陸に上げて運ばなければなりませんでした。

目の前にいる男たちは、皆力を合わせて一つの仕事をしている。そのうちの二
人、イタリア人はこわばった表情で、眉間にしわを寄せ、癇癪を起こし、ひっき
りなしにののしりちらしていた。ところがその他の連中、つまりインディオたち
は楽しそうにしているのだ。彼らはカヌーが思うようにならないことを種に笑い、
カヌーとの戦いごっこをし、カヌーを押していないときには大変くつろいでおり、
お互いの擦り傷を笑い合っていた。

このインディオたちにとって、失敗も困難も、忌むべきものではないのです。

たぶん、人生に対するもっとも基本的な姿勢が、私たちとこのインディオでは
違っています。

私たちは、失敗しないために生きています。子どもに失敗させないための教育
は、家庭でも学校でもおこなわれますが、学校のほうが厳格です。将来、職場や
工場での職業生活で失敗せずに働くことの先取りをしているのです。

学校教育のほとんどは、何かを達成させるために行われます。達成に失敗する
ことは、失敗であり恥であり、なんとしても避けるべきことなのです。

家庭はむしろ、「学校で失敗させないため」に、学校の真似をせざるを得なく
なっています。

その結果、私たちは、自分の楽しみ方がわからなくなり、たくさんの落ちこぼ
れ、落ち込み、鬱病、自殺を生みだしています。

このインディオたちのように、失敗したといって大笑いし、失敗したことを歌
にし、踊りにしているような文化を創り出すことはできないでしょうか。
私たちの文化は、失敗を排除しようとします。そのため、学ぶことがすごく下
手になりました。

そもそも、まだ遊び盛りの子どもたちに、何かを達成させるための教育をする、
というところで、間違いがあるのではないかと思うのです。達成させようとすれ
ば、必ず失意も無能も逃げ隠れも生まれます。
子どもたちの遊びは、もっと信頼できます。子どもたちは、自然な発達の経路
を持っています。

たしかに、現代社会に特有の知識や技術があり、「必要だから学ぶ」数学も外
国語も地理もあることでしょう。それは、子どもたちが遊び盛りをすぎてからで
大丈夫です。
でも、たいていは、子どもたちは見よう見まねで、おもしろがって文字を書い
たり計算をしたりします。好きな子たちは、勝手にどんどん進んでいきます。

 

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古山明男

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狩猟採集生活シミュレーション マイクラ

古山です。

最近、フリースクールやホームスクール家庭を訪ねたとき、子どもがゲーム機を
いじっていると、「やっているのは何?」とのぞき込むと、ことごとくマイクラ
(マインクラフト)なんです。

先週の公園でのお遊び会でも、子どもたちはiPadのマインクラフト
に群がっていました。

マインクラフトは、「もしあなたが狩猟採集民だったら」のシミュレーションだ
と考えていいです。森の中を探求する。道具を使いこなす。住み処を作る。食料
を得る。

子どもたちがこんなに熱中するのは、たぶん、狩猟採集民としての自己学習シス
テムが刺激されてしまうからだと思います。

マイクラの最近のバージョンは、別の機器で遊んでいる人と、通信機能を使って
一緒の世界に入って遊べます。
いやはや、すごい進化。

コンピュータゲームに熱中は、10歳くらいからにしたほうがいいし、コンピ
ューターなしでやれるならそれも見識、とは思いますが、学校の勉強でマイクラ
以上の内容があるものって、どれだけあるのかな、と思います。

古山

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識別力

古山です。

男の子に多いのですが、小学生くらいの年齢で、乗り物、動物などに、ものすご
く詳しくなる子たちがいます。

私の甥は、自動車でした。通りすがりの車を次々と「あれはマツダの~、あれは
アウディの~」

私は、バスや列車も好きでしたが、とくに好きだったのは軍艦でした。旧日本海
軍の主立った軍艦は名前をそらんじていましたし、写真を見れば一発でわかりま
した。

鉄道好きの子どもたちがいます。鉄道マニアは、大人になっても続く人が多いよ
うです。

ある知り合いの大学生は、バスでした。
千葉市内を走っているの車体番号を見れば、「あれは京成バスの~営業所所属の
~型。○○年製造」まで知っていました。

昆虫博士はよくいます。私の小学校時代の友人は、採集した昆虫のみごとな標本
箱を持っていました。

お魚博士、鳥博士、恐竜博士もいます。

共通することは....、動くものであること。(動いている恐竜を見たことが
あるとは思えないのですが)

動いているものを、チラッと見ただけで「~だ」と識別できることは、気持ちが
いいのです。もっといろいろ覚えたい、もっと素早くわかりたい、と磨きをかけ
たくなるのです。

動くものの特徴を一瞬で掴んで識別することは、狩猟採集時代の能力そのままな
のだと思われます。
もともとは動物を識別する能力だったのが、現在では自動車や列車にも使われて
います。

この識別力は、まず実際に動いている動物や自動車によって発達します。
その識別力が、その後も、抽象的な思考に応用されて、いろんな知的能力の使い
こなしになっていくと思われます。
いきなり、抽象的な思考で訓練しようとすると、いろんな概念が、ぼんやり入り
交じって、何がなにやらわからなくなります。
15,6歳くらいまでは、実際のモノで考える、ということが大事なのだと思い
ます。

古山

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ホームスクールでもよく育つ理由

古山です。

ホームスクールでも、こどもがよく育つ理由をまとめます。

われわれは、遺伝的には狩猟採集民族のままである。
人類は、狩猟採集の時代が約100万年
農耕牧畜の時代が約1万年
事務所と工場の時代が約100年である。

狩猟採集民族は、分かち合いが発達し、お互いが平等であるところがほとんど。
労働時間は少ない。

数十種の動物の生態・性質を熟知し、その捕まえ方に熟達している。
数百種の植物の性質を熟知し、どこにあるか、いつ実がなるか、どうやって食べ
られるようにするかを知っている。

道具を使いこなすが、その場その場の手近にあるもので道具を作ってしまうこと
が多い。

歌と踊りが上手。
伝承の物語がある。

われわれの子どもたちは、このような狩猟採集民の能力を、教えなくても発揮す
る。自然にやりたがる。それが、遊びの正体である。

教育は、子どもたちがもっている狩猟採集民の本能を十分に生かさないと、子ど
もたちに大きな負担をかける。子どもの遊びを生かした教育が求められる。

しかし、狩猟採集民にできないが、現代の我々が必要とする能力もある。それは、
記号を使いこなし、記号で考える能力。

記号を使いこなす能力には、ものすごく個人差がある。早いと4,5歳で勝手に
理解するようになり、遅いと11~12歳で成熟してくる。

そのため、学校の学力には、ものすごくバラツキが出てくる。

16,7歳くらいになると、記号を使いこなす教育でも、無理のないものになる。
それ以降の専門教育に接続することができる。

14、5歳までは、狩猟採集民の能力を生かして育てる。
電車の名前を覚えたり、ハーブを栽培したり集めたり、ピタゴラスイッチの仕掛
けを作ったり、そんなようなことを中心にする。本人がやりたがることを中心に
して、ちょっと助力してやると、人を信頼する人間が育つ。

教える必要のあるのは、最低限の読み書きと、初歩的な計算だけでいい。
ただし、できるだけ、実感でき、納得でき、気持ちのこもった形で教える。分量
と進度にはこだわらない。

そうすると、現代社会を自分の狩猟採集の場と心得て巧みに生き、人と協力する
ことができ、平和に生きることのできる子どもが育つ。

古山明男

 

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教室に閉じ込められた狩猟採集民

古山です。

子どもは、工場と事務所の時代に投げ込まれた、狩猟採集民なのだ。
生きるための練習をしたくてしょうがない。それでよく遊ぶ。

学校にいるときの姿は、教室に閉じ込められた狩猟採集民なのだ。

そう理解したら、子どものやることが見えてきました。
このことを、学問的にも裏付けようと思って、狩猟採集時代の生活がどのような
ものであったかの本を取り寄せているところです。

昨日会っていたある男の子は、今は高校生ですが、自主保育育ちです。
学校に上がる前に、罠を仕掛けて、カラスを捕まえたそうです。みんなが「カラ
スは、賢いからつかまらないぞ」というので、じゃあ、捕ってやろうという気に
なったそうです。

その子は、中学で、なんにも勉強していなかった。授業の最初の5分で教科書を
読めばわかってしまう。あとは、先生に気がつかれずにマンガを読んだり、眠る
工夫をしています。テストをすれば、成績はすごくよかった。

親は「ただの偏差値秀才にしたくない」という方針でしたので、私が教えていま
した。実際にやっていたことは、勉強プレッシャーに負けないよう、いっしょに
遊び抜くことでした。ある程度の年齢になって、本気でおもしろい仕掛けを作ろ
うとすると、どうしても物理や化学、地理や歴史などの知識は必要になります。
そういうときに、教え込むのではなしに、大人の知識や技術を応用して見せ、と
きには使いこなせるように手ほどきしてやると、すごく尊敬してくれました。

いま、ユニークな高校に行って、ユニークな生活をしています。

その子が、待ち伏せをするのが大好きでした。門のかげ、通路の曲がり角などに
隠れて「わっ」とおどかしてきました。

こういう子は、机に向かわせ、勉強ばかりやらせていると、伸びないです。
この子が特別なのではなくて、子どもは、自分で考え、自分で工夫するのが大好
きです。

古山

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子供は育つ

古山です。

 

子どもの遊びはどういう意味を持つのでしょうか。子どもはどういう遊びをした
がるのでしょうか。

子どもの遊びは、人類が狩猟採集の生活をするのに必要な能力が、自然に身につ
くようにしている仕組みなんだ、と気がついたら、子どもの遊びのことが「なる
ほど」とボロボロとわかってきました。

人類は、木から下りて、知恵と道具と協力によって、生き延びるようになりまし
た。それが400万年くらい前だと言われています。その400万年に間に、知恵を働
かせ、道具を使いこなし、協力する関係を作ることは、本能的にできるようにな
りました。大人がとりわけ教えなくても、子どもたちがおもしろがってやりたが
るようにできています。

大人がすることを見ていたり、手伝ったり、大人と遊んだりするうちに、必要な
能力が身につくようになっているのです。

典型的なのが言語の習得です。言葉を使う大人といっしょに暮らしていれば、言
葉を使いこなせるようになります。

判断力も、いろんな道具を使いこなせることも、協力関係を作り上げることも、
大人と生活しているだけで、できるようになります。
人類は、長らく、この自然学習システムで次世代を育ててきました。

それに比べて、農業時代の起源は約1万年前、工場や事務所で生きるようになっ
たのは、産業革命以来300年です。

狩猟採集の生活に遺伝的に適応している人間という生物に、退屈に耐え、勝手に
動かず、命令に服従せよ、ということを覚えさせなければならない。それが、現
在の学校の主たる任務です。「いま、給料をもらえる人間に育てる」ことに目が
いきすぎていて、人間の性質をよく知っているとは思えません。
学校のすべてが悪いとは思いませんが、現在の学校だったら、無理してまで行か
せる必要はありません。

賢く、器用に、愛を持って生きることだったら、学校に行かせなくても子どもは
育ちます。子どもと生活を共にし、子どもをかまっていればいいのです。

子どもの遊びの中には、ものすごい知恵が隠されています。

子どもはこんなことをしたがります。

状況判断、戦略を立てる
道具を作り、使いこなす
何がどうなっているかを知りたがる
住まいを作ろうとする
言葉に熟達する
気の合う協力できる仲間を作る
生き物を育てる

どれも、とてつもないことです。

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子どもの自然な成長

古山です。

子どもの成長は、生まれつきどのようなプログラミングがされているのだろうか、
どこまでが文化的な影響なのだろうか、ということに関心があって、長年子ども
を見ています。

たぶん、生まれつきプログラミングされているのは、狩猟採集の生活ができるよ
うになることだと思います。

身体の機能を使いこなせるようになる。
追いかけっこをする。
たくらみをする。
生き物に関心を示す。
道具に興味を持ち、使いこなす。
道具を作る。
しくみを理解したがる。
感覚を研ぎ澄ます。

このようなことを、子どもはやりたがります。それは遊びと呼ばれています。遊
びは、生存に役立つことの自己訓練が、楽しくできるようになっているものだと
思います。

もう一つ社会性の領域がありますが、自然な社会性は、狩猟採集のチームを作っ
て活動するのが楽しくなるように、プログラムされているように思います。アウ
ンの呼吸で動ける楽しさです。

人類は400万年くらい前に登場したと言われていますが、これまでの大部分は狩
猟採集の生活をしています。遺伝子は、狩猟採集生活に合わせてできているのだ
と思います。

それに比べて、事務所や工場で働いて賃金をもらって生きていくようになったの
は、たかだか200年くらいです。そんな短期間で遺伝子的に適応できるはずがな
い。だから、事務所や工場の仕事はつまらない。子どもが面白がるはずがない。

それでも、それで食っていくしかないのだから、無理やり訓練するしかない。
それで生まれてきたのが、現在の学校教育だと思うのです。

子どもにすごく無理をさせていると思います。

学校教育を受けさせなくても、考えるし、工夫するし、社会性のある子どもたち
は育ちますよ。

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古山明男

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子どもと関わる喜び

古山です

ご近所のある男の子に、ずっと勉強とも遊びともつかないことを教えています。

中学校で不登校になり、高校も続きませんでした。いま20歳になったところで
す。高校に行けなくなったころから、関わりました。

小さな爆発をさせる実験をしたりすると、そういう実験は好きなのだけれど、と
ても怖がります。おそらく、ハイパーセンシティブ(超敏感)な子だったのだと
思います。

その子にとっての学校は、怖さを自覚できないままの「怖い」だけで終わってし
まったのでした。

教科面は、かけ算九九も穴だらけの状態でした。社会性はというと、自己主張を
せず、いつでも笑顔を浮かべ、なんにでもうなずいて、生き延びてきたのでした。
中学でいじめられて不登校になりました。絶好のいじめターゲットにされたよう
です。

エンジンをいじったり、電気回路を作ったりするのは大好きな子だったので、そ
れでいっしょに付き合っていました。私も嫌いじゃありません。その子と一緒に
「こうしたらどうなるだろう」「じゃ、やってみようか」、といろんなものを作
りました。

算数も、遊ぶ合間に、少しずつ教えてきました。
いつのまにか、小学校のドリルを終えました。

目標があったほうが意欲を出す子と、目標があるとプレッシャーを感じて打ち込
めない子がいます。
この子の場合は、ちょっと「高卒認定というのがあるけど....」と言ったら、
とたんに尻込みしました。それで、目標なしでやっています。目の前のそれをや
るだけ。

その日は、中学の正負の数の計算をやっていました。
春もうららの日でした。

その子が、正負の計算をちゃんとやりました。

そのとき、幼児を見ている大人が「あれ、立ったよ」「おお、歩いた」と喜んで
いるのと同じ気持ちになりました。その子が何歳であるかは、まったくどうでも
よいことでした。

叱らずに褒めたほうが伸びる、というような打算の次元ではなくて、ただその子
のすることが嬉しかったのでした。
直感的に、この喜びは教育の本質にあるものだと感じました。

われわれは、学校で「そのくらいはできて当然。もっと先を見ろ」「ついていけ
なかったら大変だぞ」を深く刷り込まれています。それで、子どもが当たり前の
ことをできたときの感動がなくなっています。

実は、初歩的なことの中にこそ、人類の英知がこもっています。

 

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古山明男

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勝手にやらせて」モードと「かまってほしい」モード

古山です

子どもに「勝手にやらせて」モードのときと、「かまってほしい」モードのとき
があります。

幼児のときから、子どもは一人で何かをシコシコとやっていたかと思うと、とき
どき母親のところにやってきて、甘えたりグズったりおしゃべりしたりします。
この一人でシコシコやっているときが「勝手にやらせて」モードで、母親のとこ
ろにやってきて搦んでいるのが「かまってほしい」モードです。

この「勝手にやらせて」モードのときに、自主性が育っています。このときはア
ドバイスをしないことです。
「かまってほしい」モードのときに社会性が育っています。相手をしてやること
です。

子どもを観察していると、この二つのモードの間を行き来していることが、わか
ると思います。

この二つのモードに沿って対応していると、子どもと噛み合えている感じがしま
すし、労力は最小限ですみます。

「勝手にやらせて」のときにアドバイスされると、それが親切で的確なものであ
ったとしても、集中の流れがかき乱されるものです。子どもはブスッとしてそっ
ぽを向いたり、「うるさい」と嫌がったりします。そのときに「ああ、この子は
なんでも一人でやりたい子で、いっさい口出ししてはいけないのだ」と思いがち
ですが、そうではないのです。そのときはそうだ、というだけなのです。

「かまって」モードのときは、とにかく相手をしてほしい。こちらが忙しいとき
にかぎって、搦みついてくる。「この子は甘えん坊で、依存心が強くて」と見え
るものですが、これも、そのときはそうだ、というだけです。

学校に行っていますと、この二つのモードのリズムは、はっきりしていません。
しかし、ホームスクールの場合は、このリズムを中心に生活が組み立てられてい
きます。

よく「学校に行かないと社会性が育たない」と言われるのですが、そんなことは
ありません。学校が教えている社会性は、集団ルールを読み取って合わせること
ができるか、ということでして、浅いレベルです。何歳でも身につきます。

いわゆる「社会性がない」状態は、その子が不安と恐怖にとらわれていることを
示しています。学校に行ったから、行かないからという単純なことではありませ
ん。

深いレベルの社会性は、共感能力を基盤としています。そこから、すべての社会
性が発達してきます。それが育っているのが「かまって」モードのときです。こ
のとき、子どもに対して愛と親切をつくすのが、教育の真髄だと思います。

もちろん、日々の生活でいつも子どもときちんと向かいあうのは無理でして、出
来うるかぎり、ということですが。

学校の先生が、子どもの「かまってほしい」モードに、授業を通じてでも休み時
間でもいいから応えてくれているなら、それはいい学校だと思います。しかし学
校の先生方は職務の枠に縛られて、「~をちゃんとしたか、しないか」で子ども
を見ていることが多い。

ホームスクールの最大の長所は、子どもの「勝手にやらせて」モードを尊重でき
ることと、「かまってほしい」モードに対応できることだと思います。その両
モードの行き来を自然にやらせることができます。

 

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古山明男

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