古山です。自宅で、健康に正月を迎えております。
本年もよろしくお願いいたします。
「これがクリエイティブな状態だ」と思うことを、
子どもの自然な状態と同じなのです。それはまた、
ます。
その日は自分の体調が悪かったため、
で療養していました。鎮痛剤のお世話になっていれば、
なく生活できました。
1年半ほど注力していた本を書き上げたところでした。
ら解放されていました。普段だと、「明日の~
「次の~の準備のためにあれをしなければ」
れらが突然全部消滅していました。
自分の部屋の中を見回すと、机の上も、床の上も、
無造作に積み重ねられています。この乱雑な状態のため、「~
ったいどこだ」で、どれだけストレスになったことか。さりとて、
はエネルギーとまとまった時間が必要です。
ところがその日は、突然、
えずに始めました。
その日、やらなきゃ、と念頭にあったのは他のことだったのです。
れとして、とにかく床の上に読んだままの本があるから、
そうすると、その隣の本も、あ、これはあっちの本棚だ、と戻す。
書類はもうご用済みだから捨てよう、
なんだか、判断力が働くのです。「これは捨てる。これも捨てる。
んなところにあったじゃないか」と、
こんどは机の上に視線が行きます。ほうっておけない気になる。
げられたものを相手にしはじめました。
やっていると、本棚のここを未整理書類の置き場所にしたらいい。
まとめて置く場所にしよう。などとアイデアが湧きます。
を載せてあるワゴンを動かせるようにすれば、
それをやってしまいました。
何かを死蔵するだけの空間が、
「やらなきゃ」が何もないから、何も苦になりません。
そういうことを3,4時間やっていたのだと思います。ふと、
「あ、これ、子どものときの状態だ」
子どもの時は、いつもこうだったのです。
み木を積んでいるとき、工作に熱中しているとき、こんなでした。
とやっている自分に分裂がありません。
何十年も、これを忘れていました。
大人のときと子どものときで、何が違うのか。子どものときには、
ゃべりがないのです。ただやっています。でも、
ん。頭は、フル回転しています。
大人になると、いろいろな権威者が頭の中に棲み着いて、
まず、現場監督みたいなのがいます。何をやるときにも、「
したらこれして、....」という指示を出しています。
ます。「うまくいったぞ。いいぞ」、「この程度か」
アナウンサーと解説者が、実況中継をやっている時もあります。「
熱中してやっております。こんなことが、近年あったでしょうか。
けるということは人間にとって大切なことなのです」
れは実は、注意散漫の一種です。
ギーが分散しているのです。
こういうのって、純真じゃないですね。こういうおしゃべりが、
収するための白紙の部分を、占領してしまっているのです。
学びで一番大事なのは、頭の中のおしゃべりなしに、
ぶことなのだと思います。
そのとき、ほんとうの学びが起こっています。先入観がなくて、
見ています。
「あ、これ、これなんだ。これが学ぶことの本質なんだ」
先に成果を求めている教育は、
す。やっているプロセスに喜びがない。だから、習得率が低くて、
多くなります。
どんな過去も、どんな権威も持ち込まずに、現在を生きる。
それって、学ぶことに限りません。
方ではなくて、歌のようなものであり、踊りのようなものです。
(ブログをはじめました。「人間のこと社会のこと」
http://ameblo.jp/afrym/entry-
これとほぼ同じものを載せています。)