子どもの眼って、キラキラしています。
そして、キラキラしたものが見えています。
子どもにとって、生きるということはキラキラしたものを追いかけることです。
すると何かしら自分の中に新しいものが湧いてくるのです。
私は、虫を捕まえたり飼ったりするのが大好きでした。虫を見ると、「あっ、あ
れは~だ」と言って追いかけていく。
学校に上がったくらいから、乗り物が好きでした。図鑑を見ていて、特急列車の
絵や飛行機の絵などは、ただの絵じゃないです。なんていったらいいか、お宝で
す。
特に軍艦が好きでした。テレビで、軍艦が波に上下しながら進んでいる姿をみる
と、それだけでゾクゾクしました。大戦中の日本海軍の軍艦の名前はほとんど覚
えていました。
いっしょにホームスクールをしていた甥は、自動車が大好きでした。
それから、ヨーヨーをやり、スケボーをやっていました。
そのキラキラしたものがいつまでキラキラしているかって、そんなことはわかり
はしない。次にどんなものが現れてくるか、それもわかりはしない。でも、その
キラキラしたものが導いているのです。その子のたどりつくべき所に。
あらかじめ「~を習得すべき」と定めて子どもにやらせることは、子どもの育ち
にとって補助的な役割でしかないと思います。
それなりに役に立ちます。計算ができて便利だし、字が読めて世界は広がります。
だけど、教育の名で、子どもがキラキラしたものを追うことを罪悪視したり、そ
のエネルギーを奪うようだったら、それは本末転倒です。
学校は、必需品ではないです。
学校が子どもの心の扉を叩けないとしたら、ただの知的労働キャンプです。
いま、若い頃読んで感銘を受けた本を読み直すことが多くなっています。タゴー
ルというインドの詩人の代表作「ギタンジャリ」、詩人自身の英訳本を手にとっ
ていました。
この人は、一生キラキラしたものから眼を離さなかったのだと思いました。慣習
や「ねばならないこと」には眼もくれなかった。三つの学校に不適応。イギリス
に留学していますが、そこで落ちこぼれ。でも、この人の家庭と、文化風土がす
ごかった。ベンガル・ルネッサンスと呼ばれる文化・芸術の大波の中心に、タ
ゴール一族がいました。
タゴールは、あらゆる事物のなかに神性を見て、それへの愛を歌い上げた人です。
それは、やはり、この文化風土の中で護られていたのだと思います。彼が歌った
ら、人々がたちまち心をときめかせたのです。
もし、この人が西欧文明に生まれていたら、キラリとしたものを持っているけれ
ど、鋭い批判に身を固めた孤高の人になったのではないか、と想像するのです。
話がえらく大きくなってしまったのですが、子どもたちが見ているキラキラした
もの、それを護ってあげられたら、子どもたちがきっと歌いだします。それがど
んな歌かは知らない、子どもたち自身だって知らない。でも、どんなお手本の中
にもない、どんな点数に脅迫されてもいない、小さな美しいものだろうと思いま
す。
古山明男