前回、甥とのことを少し書きました。
うちのホームスクールもけっこう悪くなかったんだ、
わず書きました。
ずっと、あれも出来なかった。これも足りなかった、
のです。
人が育つのは、生活の仕方によってだと思っていました。
ようと思っていました。
自分の衣食住に、ちゃんと関わること。
「こんなもの、作ったぞ。食べないか?」
「じゃ、おじちゃん、これ食べてみなよ」
とか
「あそこのペンキ、いっしょに塗っちゃおうぜ」
みたいな生活。
それは、私にとっても、理想の生活だったんですね。高嶺の花。
まず、とにかく私が忙しかった。
から夜中まで、多種多様の授業を抱え、
がない。
進学塾をやる気はなかったので、
も見ていました。いまがコミュニケーションのとりどころ、
ころ、という局面がいくらでもあります。
私に暇があれば、まず本を読みたいし、自分の研究をしたい。
甥は、安定していて育てやすい子だった。
で、ついつい後回しになりました。
小学生の年齢のうちは、夜、おじちゃんの仕事がいつ終わって、
るかと待っている。でも、
で頭をいっぱいにしていたり。
夜寝るときに、即興のお話しをしてあげるのだけは、
は大事なことだった、いいことをできたな、と思います。
食事は、甥の母親が週に2回くらい来て、作り置きをしていく。
いく。
それと、同居しているおじいちゃんが、口は何も出さないけれど、
を買ってきたり、あれこれと面倒を見てくれる。
そうすると、
「生活中心のホームスクールをやりたい。その中での創意と工夫、
って、ぜんぜんそうできなかった。
などなど、私の不完全燃焼感はいっぱいありました。
でも、今から見ると、おじちゃんも、母親も、おじいちゃんも、
それなりあれこれとサポートしていました。
眼を離してしまったわけではないし、それなりの暖かみはあった。
対になかった。だから曲がらずに育った。
それなりになんとかなっていたのだなあ、と今になると思います。
古山明男