古山です。
暑いですね。
最近、
います。
「これは、こういうことなのだ」
「こういうことをしてはいけない」
「こうすべきだ」
このようなものが、脅しを伴わず、
そうすると、自由に生きられます。できれば、
私は、20歳ごろから、頭の中の対話が止まらなくなりました。
る程度止まる時間を持てるようになりました。そうしますと、
こっているか、いろいろ観察できます。
いろんな攻撃的な条件反射があるんですね。それは、
自分が失敗すると、胸と腹のあたりに、
いなむような後悔。「こうすべきだったのに、
いう考えが湧いてくる。これは、
です。父と母は、そんなにきつい人間じゃなかった。
「自分ときたら、あんなことをやらかして、
次々と否定的な自分像を造る。その逆に「
これも、たぶん、学校文化で身につけました。
「あいつは、オレにこんなことをした」と特定の個人を恨む。
もやっていたのが、伝わったみたい。
自分が価値のないものに感じられるとき、「
「今の教育ときたら」と、頭の中で演説をぶつ。これは、
ました。70年の学生騒乱のときのことです。若者特有の顕示欲、
こういうものはみんな、ちょっとの刺激で、
みんな、やむを得ず身につけたものです。
それらは理屈にあったことを言っているように見える。でも、
はみんな繰り返しばかり。プログラミングされたロボットと同じ。
に、新しい発見などありはしない。
この条件反射的な反応が、自由を奪っているのです。
自由がないこと。それは、自分でもどうにもならない感情の混乱。
敵意などを処理できないこと。
同じ事を考え続けること。こういうものは、
ます。
その起源の多くは、子どもに対しての苛烈さ、脅し、競争、
子どもに対して柔和で親切であることが、
そうだとして、子どもに柔和で親切であったとして、
とはどうするんですか。という疑問が出てきます。ところが、
があります。そういう条件反射は書き換えられるのです。
我々は、過去に決定されてはいない。自分の自由を獲得できます。
自分のなかのとぐろを巻いているものを感じ取ったとします。
を見ることもなく反射的に「なんてことを」
ところが、
に見つめるということが、新しい条件付けになるのです。
いま、まさにやっていることが、
です。注意深く、愛情を込めているほど、定着しやすいです。
それは、命令で自分を動かすことではなくて、
最近、自分で頭の中のおしゃべりが止まった状態になれるのは、
換えが、進んでいるからなんです。
とくに、
件反射の鎖をほどきます。
子どもに対して何か問題を感じても、
柔和に親切に接することです。すると、子どもの中に、
ます。
誰にとっても、
のものが光なのです。
これ、自分じゃわかりにくいけれど、
す。誰もが、光を持っています。べつに奥深くにではなくて、
使っているものとして持っています。
(まなはぐM